『無声映画入門:調査、研究、キュレーターシップ』(美学出版 2023)について
石原 香絵
はじめに
2023年11月10日、日本アーカイブズ学会の2022年度出版助成制度の対象に選定していただいた『無声映画入門:調査、研究、キュレーターシップ』がようやく刊行に至った。邦訳の意義をご理解くださった学会関係者の皆様に深く感謝するとともに、本稿では、訳者の視点から本書の概要とこれまでの経緯を述べることとする。
1 本書の概要
本書はパオロ・ケルキ・ウザイ著 Silent Cinema: A Guide to Study, Research, and Curatorship, 3rd Edition (BFI 2019)の全訳であり、邦訳出版の目的は、フィルムアーカイブ領域で長年愛読されてきた基礎文献を日本の読者に紹介することにある。その最新エディションは、下記の通り簡潔な章題の全15章から成り、260点を超える図版と3点の付録をともなっている。なお、巻末の参考文献一覧は美学出版ウェブサイトの専用ページ[https://shop.bigaku-shuppan.jp/items/79420325]からダウンロード可能である(PDF 全84頁)。
〈目次〉
序章
第1章 画素
第2章 セルロイド
第3章 色彩
第4章 機材
第5章 人材
第6章 建物
第7章 作品
第8章 興行
第9章 音響
第10章 コレクション
第11章 証拠
第12章 複製
第13章 欠陥
第14章 痕跡
第15章 キュレーターシップ
付録(映画フィルム計測表/コダック社製映画フィルムのエッジ・コード/パテ社製映画フィルムのエッジ・コード)
著者のパオロ・ケルキ・ウザイは、1990年代に米国ニューヨーク州のジョージ・イーストマン・ハウス(現ジョージ・イーストマン博物館)映画部門にディレクターとして着任し、来るべきデジタル暗黒時代に備えて映画フィルムを中心とするアナログ資料の残存を確実なものにすべく、理論と実践の両面において十全な体制を整えた。その一環として、館内に少人数制の専門学校(L. ジェフリー・セルズニック映画保存学校、以下セルズニック・スクール)を開校し、米国におけるフィルムアーキビスト養成の先陣を切ったことでも知られる。熱心な教育者として、学生の教科書となる本書の執筆は必然でもあったろう。2023年現在、同校にはインド、ウクライナ、カナダ、ドイツからの留学生を含む11名が学び、来夏には卒業生が総計300名を超える見込みだという。
2 サード・エディションの邦訳に至る経緯
映画誕生100年の節目を翌年に控えた1994年、英国映画協会(BFI)から刊行された本書のファースト・エディションBurning Passion: An Introduction to the Study of Silent Cinemaは、初学者でも無理なく読み通すことのできる80頁ほどの厚みだった。当時の日本でも無声映画は各所で上映されていたが、染調色版の複製や適正映写速度に対して今日ほどは意識が向けられていなかった。訳者にとって1997年のロンドンでの無声映画体験が忘れ難いのは、美麗なBFI所蔵35mmプリントのバスター・キートン主演作をライブ演奏付で鑑賞し、それまでコントラストの強い16mmプリントの無音上映やVHSテープの再生によって「知っている」つもりでいた作品の数々が、実はオリジナルと似て非なるものであったことを痛感したからである。
表紙に『キートンの探偵学入門』(1924)のスチル写真をあしらったセカンド・エディションSilent Cinema: An Introduction(2000)は、映画史を専攻する学生向けの入門書のような体を装いながら、読者をフィルムアーカイブの世界に誘い込む仕掛けが見事だった。まさにその出版年、僅かばかりの映写経験を頼りにフィルムの修復・保存を学び始めた訳者から、セカンド・エディションの影響は消えることがない。200頁におさまる全8章は、学生が半期で学ぶのにちょうど適した分量でもあった。2010年には第1章の和訳を勤務先の紀要に投稿したこともあったが(「セルロイドの恋:パオロ・ケルキ・ウザイ著「無声映画入門」より」『名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要 vol.3』)、邦訳出版はついに叶わなかった。
400頁近くまで増補されたサード・エディションが著者から届いたとき、デジタル・シフト以降の状況を幅広くカバーすることですっかり様変わりしたその構成に馴染めなかったのは、セカンド・エディションへの思い入れが強すぎたせいかもしれない。2008年にオーストリア映画博物館から出版されたFilm Curatorship: Archives, Museums, and the Digital Marketplace等に掲載された著者の論考が反映された結果、「キュレーター」の存在感が増し、「フィルムアーキビスト」は脇に追いやられてしまった。また、クリスティアン・モルゲンシュテルンやエリック・サティの引用や言葉遊びの要素がほぼ姿を消したのも残念でならなかった。どうにか訳し終えることができたのは、戸惑いながら投げかけたいくつもの疑問点を、著者が素早く的確に打ち返してくれたおかげである。
3 無声映画のオリジナル体験を求めて
サード・エディションの主役には、ジョルジュ・メリエス監督『月世界旅行』(1902)が抜擢された。同作は著作権も切れているし、閲覧しようと思えば無料動画サイトでいくらでも閲覧できる。しかしメリエスの時代に作成された『月世界旅行』の上映素材は、実はパリのシネマテーク・メリエスが所蔵する1本を除いてすべて失われいる。どう考えても、その唯一無二のナイトレート・プリントが映写されるような機会が訪れるとは思えない。わたしたちは、デジタル化された『月世界旅行』のカラー版ないし白黒版の「アバター」を手元のスマホで流し見て、「『月世界旅行』を知っている」と思い込んではいないだろうか――著者は第1章でそのような問いを立てる。
メリエスはどのような機材を使って映画を製作し、上映会にはどういった属性の人々が訪れ、いくらの入場料を支払っていたのか。そもそも当時の映写用プリントが1本しか残っていないのはなぜなのか。解を求めて調査・研究の旅に出る前に知っておくべき基本事項を、本書は順に説いていく。基本事項を押さえたうえで、第12章の図1(歴史上のプリントの世代)の原版を出所とする展開に着目してほしい。すると、続く第13章が扱う映画復元の5つの目標や倫理上の3大原則の説得力が増す。コロナ禍を経て映画のオンライン上映が常態化し、もはやセカンド・エディションの時代に戻れないことは自明だが、デジタル技術の効用と、無声映画をできるかぎり初公開時に近いオリジナルの形態で守り残すというフィルムアーカイブ機関の従来の方針が、いつの間にか無理なく併存していることにも気づかされる。
著者はボーンデジタル世代の研究者の背中を押し、一次資料への能動的なアクセスを促す。対象はフィルムのみならず、関連機材からポスター等の宣伝材料、衣装、書き込みのある脚本や検閲記録、そして映画館の運営資料まで実に幅広く、思い立ったが吉日である。しかし現実に――とりわけ日常的に深刻な人員不足に苛まれているフィルムアーカイブ機関において――そのような行為は歓迎されるのだろうか。場合によっては冷たい視線を浴び、胃が痛くなるような思いをするかもしれない。一方で、若き研究者の誠意が伝わり、収蔵庫に続く重い扉がこれまでより少し広く開くこともあるかもしれない。
第13章の終盤には、著者が初期から重視してきた基本用語の定義が登場する。第14章が取り上げる収集保存機関の類型も然り、名称や用語の不統一こそフィルムアーカイブ領域の弱点だという指摘は的を射ている。そして第15章(最終章)では、説明責任、選別、オーファン、本国返還、映写速度、音楽、映画祭といった「キュレーターシップ」の要素が語られる。著者によれば、蓄積された現物資料を未来に向けて提示していくため、フィルムアーキビストにも映写技師にも上映プログラムの担当者にもキュレーターとして立ち回る能力が期待される。そのような新たな定義に希望を見出すことができたのは、邦訳出版に向けた旅の終わりのこのうえない喜びだった。
おわりに
ここでセルズニック・スクールの卒業生、つまり著者の教え子の一人であるスペイン出身のイネス・トハリア・テラン監督によるドキュメンタリー映画『フィルム 私たちの記憶装置』(2021)に触れたい。本書の参考文献一覧にも含まれる同作は、2023年現在、神戸映画資料館が日本語字幕版をオンライン配信[https://vimeo.com/ondemand/film2021]している(教育目的のDVD販売や貸出も予定されている)。フィルムアーカイブ領域の教材として、本書とあわせてご覧いただければ幸いである。なお、邦訳出版にあたりご協力を賜った飯田定信様、片岡一郎様、門木徹様、黒田結香様(美学出版)はじめ多くの皆様に心より謝意を表する。。
【著者】パオロ・ケルキ・ウザイ(Paolo Cherchi Usai):チネテカ・デル・フリウリ(イタリア)チーフ・ディレクター。元ジョージ・イーストマン博物館(米国ニューヨーク州ロチェスター)映画部門ディレクター。現在、同館特任シニア・キュレーター及びロチェスター大学特任教授。ポルデノーネ無声映画祭、L. ジェフリー・セルズニック映画保存学校、そして初期映画研究者の国際学会ドミトール共同創設者。テルライド映画祭常任キュレーター。2015年、世界初の映画フィルム保全のための映画祭「ナイトレート・ピクチャー・ショー」を創設。主な著書に『Griffith Project』(BFI 1999–2008)、『La storia del cinema in 1000 parole』(Il Castoro 2012)、デヴィッド・フランシス、アレクサンダー・ホルヴァート、ミヒャエル・レーベンシュタインとの共著『Film Curatorship: Archives, Museums, and the Digital Marketplace』(Österreichisches Filmmuseum 2008)がある。また、自著『The Death of Cinema』(BFI 2001)をアルヴォ・ペルトの音楽とともに長篇無声映画化した『Passio』(2007)や、アロイ・オーケストラのオリジナル・スコアをともなう『Picture』(2015)の監督でもある。
【訳者】石原香絵:映画保存協会(FPS)代表。2001年、L. ジェフリー・セルズニック映画保存学校卒業。学習院大学大学院人文科学研究科アーカイブズ学専攻(博士課程)単位取得退学。博士(アーカイブズ学)。国立公文書館認証アーキビスト。2021年、ポルデノーネ無声映画祭ジャン・ミトリ賞受賞。主な著作に「A Historical Survey of Film Archiving in Japan」『Routledge Handbook of Japanese Cinema』(Routledge 2020)、『日本におけるフィルムアーカイブ活動史』(美学出版 2018年)、「世界/日本の映像アーカイブ事情」『映像にやどる宗教 宗教をうつす映像』(せりか書房 2011年)、「Lost Films from Japan」『Lost Films of Asia』(Anvil 2006)がある。