【プロフィール】
1966年 東京都就職
1975年 東京都公文書館に異動
(2002年総務局統計部に異動、2005年に再び東京都公文書館へ)
2007年 退職
2007年~2017年 中央大学非常勤講師
2008年~2017年 学習院大学非常勤講師
2008年~2012年 江東区役所公文書等専門員
【主な論文】
「明治期地方官における文書管理制度の成立」(『記録史料の管理と文書館』北海道大学図書刊行会1996年)
「公文書の検索システムを考える」(『東京都公文書館研究紀要』3号、2001年)
「台湾総督府及び地方庁の文書管理制度」(『台湾総督府文書の史料学的研究-日本近代公文書学研究序説-』ゆまに書房2003年)
【学会登録アーキビスト】登録番号JSAS2012008
(初回登録:2013年4月1日、更新登録:2018年4月1日)
1.アーカイブズ(文書館)と関わるきっかけ
・アーカイブズに関わるきっかけは何でしたか? ―偶然知った東京都公文書館―
私は1966年に東京都に就職し、事業所勤務を経て総務局総務部文書課に配属されました。文書課は、都のレコードマネジメントを所管する部局です。当時の文書課には法規審査係、改善指導係、公報係、公印係、文書管理係があって、私は公印係で仕事をしました。そこで初めて公文書館の存在を知りました。改善指導係では、文書事務に関する庁内啓蒙誌「文書だより」を発行していて、その1頁分は公文書館の担当で、近世期の史料や近代期の公文書が紹介されていました。そんなこともあって、当時公文書館の職員であった吉原健一郎さん(のちに成城大学教授)が文書課に顔を出されていて、話すようになりました。ある時公文書館に出掛け、吉原さんに館内を案内していただく機会がありました。そこで吉原さんから明治期の公文書を見せられて、公文書の件名目録がなく利用者が困っている状況を教えてもらい、「山のように仕事があるんだよ。公文書館に来ない?」と誘われました。その時「こういう仕事もいいなぁ」と思いました。役所は人事異動でキャリアアップするシステムがありますが、この様な仕事ならずっと続けてやってみたいと思ったのです。さっそく文書課長に異動をお願いしましたところ、課長は私の将来を親身に心配して反対して下さったのです。40年以上も前のことですが、公文書管理の意識が高くなった今とは、かなり違う時代でしたからね。公文書館へ異動した際の歓迎会の席でも、当時の館長から「文書課から希望して公文書館に来た人は貴方が最初です」と言われました。
2.アーカイブズにおける仕事内容
・公文書館ではどのような仕事をされましたか?
私は法学部政治学科出身で、史学科の出身ではありません。ですから古文書は読めませんでした。古文書を読む機会がなかったのです。異動後に編纂室の方々が古文書解読の勉強会をして下さり、これには大変助かりました。整理閲覧係に配属され、江戸図や江戸期地誌類に詳しい方に指導を受け、仕事を覚えていきました。整理閲覧係は、公文書や史資料の収集~整理~保存管理~目録化~閲覧を担当する係です。保存管理では、主に江戸期と明治期を担当しました。目録事業では、明治期公文書の件名目録を作る仕事を担当しました。
当時の公文書は簿冊に綴じて保存されていますが、東京都公文書館には簿冊の表題を記した簿冊目録しかなく、簿冊に綴じ込まれた1件ごとの公文書内容を書き出した件名目録はありませんでした。既にいくつかの文書館では件名目録が作成されていて、それがとても参考になりました。ただ、自分がこの仕事を続けられる自信が持てたのは、文書課にいたことだと思います。文書課で文書管理規則に従って仕事をしてきた経験が、この仕事を身近に感じさせてくれたのです。最初に書庫の中で明治期公文書の山を見た時、この山の構成が判りませんでした。しかし当時の記録掛で作成された文書に「編綴例」や「簿書編纂及保存期限例」があり、これが現在の文書管理規則であることが判りました。完結後文書の保存区分方法が示されていて、永年保存にあたる文書が整然と残されていることに気づきました。この規則を経年的に追っていけば、保存区分方法が系統立てて理解でき、今現在の考え方で意図的にアレンジすることなく、時代時代の編成を変えない目録作成ができると思いました。書庫で見た文書の山は、たまたま残った古い文書の山ではなく、管理制度で残された一世紀半も前の公文書の山なんだと理解できたことに、我ながら感動した記憶があります。一世紀半にわたるレコードマネジメントの結果が、この書庫に残っていることに感動したのです。
目録対象とした明治期公文書は13,000余冊ありました。庶務係が予算をとって下さり、非常勤職員を雇用して件名目録事業を進めました。結果的に数十万件の目録データが完成しました。東京都公文書館のホームページから検索いただけますし、国立公文書館の横断検索システムからも検索いただけます。私が公文書館に赴任した当初は、明治100年記念事業の最中で、学校史や社史の編纂が盛んな時期でした。編纂事業に係わる多くの皆さんが閲覧におみえでしたが、当時は簿冊目録しかなく、目的文書を探すのに大変な時間と労力をお掛けしてしまいました。件名目録により、少しでも改善出来たかと思うと嬉しいですね。
私の所属係は、閲覧窓口も担当していましたので、レファレンスも受けました。レファレンス業務は難しいですが、こちらの知識が増えるにつれて楽しいものに変わっていきました。そして何よりも勉強になりました。レファレンスには少なくとも所蔵史資料に関する知識が必要ですが、その時代の文書管理規則の知識も助けてくれます。例えば医療制度を研究する方から、鉄道会社や銀行や学校の設立願は残っているのに、私立病院はどうしてないの?と聞かれることがありました。当時の保存規則をお見せして、鉄道会社や銀行や学校の設立願は永年保存、しかし私立病院は20年保存であることをお話しします。利用者の方からは、残っていないのは残念だけれど、残っていない理由が判って良かった、などとおっしゃっていただけます。またその時代の文書保存区分方法である「類別部目」から、お尋ねの文書はどの組織が担当した仕事で、どの様な名称の簿冊に綴じ込まれているのかをお話しすることも多々ありました。今でしたらコンテクストデータとかメタデータと呼ぶのでしょうが、現存文書の作成から此処に至るまでの過程を知ることは、レファレンスの上でも重要なことです。
東京都公文書館の場合、私が赴任した時期には歴史資料として重要な公文書を評価選別する業務は、まだ制度化されていませんでした。永年保存文書だけは公文書館へ引き継がれて集中管理され、有期限保存文書は保存年限経過後に廃棄されていました。その後の規則改正で、この評価選別業務が加わりました。当時はデジタル化以前で、紙媒体による文書が作成されていました。各課で文書を起案する際に、文書管理カードを作るのですが、そのカードが公文書館に送られてきます。それを見ながら評価選別基準に従って選別を行い、保存年限にかかわらず歴史的に価値ある文書を収集しました。役所側の文書に対する一般的な価値観は、制度の新設や廃止に関しては長期の保存年限を設定しますが、ルーチン化した業務に関しては短期の保存年限を設定しがちです。そうなると例えば、ある施設の設置と廃止時期は記録として残る可能性が高いのですが、その施設に入居した方々の日常生活に関してはほとんど記録が残りません。年間行事の具体的内容などは、判らなくなってしまいます。少なくとも東京都にとって重要な施策に関しては、永年文書だけでなく、有期限文書も合わせて一緒に残す必要性を感じています。2001年3月に「歴史資料として重要な公文書等の適切な保存のために必要な措置について」が閣議決定されました。歴史資料として重要な公文書内容を示しただけではなく、重要とする公文書については、決定に至るまでの審議過程、検討過程、協議過程、更にその決定に基づく施策の遂行過程も含めるとの考え方が示されています。その通りだと思います。
また、この評価選別制度は、公文書館法(1987年制定)時代の制度です。現在の公文書管理法(2009年制定)なら、現用期に歴史公文書を選んでおくことが出来ますが、あくまで保存年限を経過した非現用文書を対象にしていました。つまり役所側の価値観では不要となったものから選んでいました。一つの事業を考えた場合、複数の意思決定を重ねながら執行されていくケースは多々あります。ある事業の根幹文書は、比較的長期の保存年限となるでしょう。付随して起案される文書はその内容によって異なりますが、短期の保存年限になるでしょう。仮に一連事業で5件の文書が作成されていた場合、もっとも長期の保存年限を永年保存文書とすれば、他は10年保存だったり5年保存だったり3年保存だったり1年保存だったりします。ところが評価選別をする立場からいえば、最も重要とされていない文書から選別時期が現れます。通知文は1年保存程度でしょうが、この文書だけを見れば通常は選別しないでしょう。軽易な内容です。しかしこの事業自体が重要な事業と位置づけているならば、その関連文書は一括りで選別したいと思います。何を重要事業と位置づけるかという方法論が必要ですが、少なくとも重要事業は後世に伝えたいと思います。
・印象に残った仕事のエピソードはありますか?
東京都公文書館は、2019年度中に多摩地区の国分寺市に移転しますが、1980年代末頃にも新館構想が検討されています。新館構想とともに、公文書収集範囲の拡大(知事部局と全行政委員会)、所蔵史資料のマイクロフィルム化が併せて検討されました。その後、これらの諸構想のうちマイクロフィルム化だけは予算化され、事業として実施されました。数年間続いた大事業でしたが、そのおかげで史資料を傷めることなくコピーにも応ずることが出来るようになりました。現在は全てデジタル変換されています。
役所は予算制度ですから、予算が取れなければ事業執行は出来ません。そんな予算担当者の慣用句に「根っ子を残す」があります。ダメでもダメとあきらめず、根っ子を残したと考える思考方法から、くり返し予算要求する重要性を覚えました。もちろん当時の新館構想は、この度の新館移転と直接的につながるものではありませんが、この考え方は役所で仕事を進める上で重要なことだと思います。
3.アーキビストへの関心
・アーキビストを目指したきっかけはいつですか?
―吉本富男さん、安澤秀一さんとの出会い―
1977年の全史料協(全国歴史資料保存利用機関連絡協議会)の福島大会に参加して、「文書館業界」を知りました。それまでは東京都の文書のことのみを考えていましたが、全史料協では行政の枠を超えて国内の文書館・公文書館という類似機能を持つ機関の皆さんが集まっています。アーカイブズという世界があることを意識し、未開拓の仕事分野が広がっているという認識を持ちました。
まずは先人に学ぶ必要を感じました。この時期は、東京都公文書館は全史料協の機関会員になっていませんでしたので、個人会員にさせていただき、当時副会長の職にあった埼玉県立文書館の吉本富男さんに教えを請うため、同僚の水口政次さんと埼玉通いを始めました。吉本さんからは文書館業界のあり方、この業界でのものの考え方、目録作成に対する基本的な考え方、どういう項目を採取すればどの様に利用されるのか等々を教えていただきました。アーカイブズ学・文書館学などの考え方がなかった時代でしたので、大変に助かりました。
また当時、国文学研究資料館・史料館教授で、後に『史料館・文書館学への道』(吉川弘文館、1985年)をお書きになった安澤秀一さんが中心になって、外国のアーカイブズ制度を紹介して下さっていました。外国文献の勉強会も開いていただきましたので、私も加えていただきました。安澤さんを通して海外のアーキビストにも会うことも出来ました。
・アーキビストを続けていこうと志したきっかけは?
―人事異動をしなければならない実情―
公文書館で仕事をしてみて、この仕事は専門的だとの認識を持ちました。1984年に当時の西ドイツのボンで開催されたICA(国際公文書館会議、International Council on Archives)大会に、同僚の水口政次さんと参加しました。この大会には日本から、国文学研究資料館・史料館の安澤秀一さんと安藤正人さん、国立公文書館の菅野弘夫さんと小林蒼海さんなどが参加されています。それが全世界のアーキビストに会う最初の機会でした。アーキビストは重要な仕事を担っている専門職という意識を強くしましたし、自分が従事している仕事を客観的に眺めることが出来て有意義な経験となりました。
他方で、自身がアーキビストとしての仕事に従事しているとは思いましたが、我が国には専門職制度がありません。人事担当者に聞いたところ、専門職の制度要件としては、①一般職とは違う任用制度、②一般職とは別の給料表、③その職層のなかでの昇進制度、の3点が必要とされるとのことでした。専門職の制度化への道は、簡単なものではないと思いました。
公文書館でずっと仕事を続けたいとは思っていましたが、現行制度の中では難しく2002年から3年間総務局統計部に異動し、その後公文書館に戻りました。
・アーキビストとしてのやりがい・難しさは何ですか?
件名目録作りは、やりがいのある仕事でした。判らないものを判るようにする仕事ですから。同時に自治体に属するアーキビストとして、評価選別業務は非常に興味深いと感じていました。やりがいと難しさの混在する仕事だと思いました。評価選別制度がなければ、保存年限という役所側の価値基準だけで文書が処理されてしまいます。この制度があることで、歴史的・文化的価値という別の視点で再評価できます。その一方で、自治体のアーキビストとしては、その自治体にとっての重要事業の把握が必要だと思います。重要事業ならば、その事業の全体像を残したいと思います。結論文書だけではなく、経過が判る文書も含めて残したいと思います。ところが評価選別の現状は、一事業全体から見れば、保存年限の短い文書から見ていくことになります。軽易な内容の文書ですから、判断に迷います。文書の作成段階である起案時に、重要事業を示す「しるし」を付けられるシステムがあれば、などと思ってしまいます。重要事業の位置づけも、アーキビスト個人が空想的に考えるのではなく、例えば議会審議案件、知事案件、首脳部会議案件、長期計画案件等々、役所が持っている意思決定過程を参考にすればそれほど難しいことではないように思います。
少し大きなお話しになってしまいますが、そもそも間接民主制ですから、国民から選ばれているのは議員や自治体首長です。公務員は国民から選ばれているわけではなく、国民から立法権を与えられた議員や首長が作ったルールを履行する立場にあります。そして公文書は、そのルールに基づいて作成された国民共有の意思決定記録であり、つまり主権在民の根拠となるものです。アーキビストの仕事は、その担い手であることでしょう。主権在民の担い手、この意識は大切です。この意識で自らを律する、そう思うとやはり難しい仕事ですね。個人的には、専門職制度が必要な所以でもあると思っています。
・アーキビストの待遇についてどのように思いますか?
個人的に言えば、公文書館にいれば専門的な仕事ができると思っていました。もちろん専門職ではありませんが、職務には専門性があると思っていました。その仕事を続けられることが、私にとっての「待遇」だったと思います。一般論として言えば、2005年に内閣府大臣官房監修『公文書ルネッサンス』が刊行され、各国公文書館の専門職員数が示されていて我が国とは桁違いの多さです。専門職の国家認定制度が必要だと思います。それが我が国アーキビストの待遇改善につながると思います。
他方で、非常勤職員と一緒に仕事をしてきたので、その待遇は気になります。雇用年限の上限5年ができたことで、より不安定になっていると感じます。件名目録事業を始める時に、「正規職員の人員要求はできない」とのことで、非常勤職員を雇用しました。当時、雇用年限の上限は無かったものの不安定でした。頭の痛い問題ですが、現実には期限付きの非常勤雇用が増えている流れがあり、「専門職は非常勤職員で」との考え方が進んでいます。アーキビストとしての専門職認定と、職域として正規職雇用が生まれなければ、非常勤職員での専門職対応を続けることになってしまうだろうと思います。
また専門職制度には、「専門職に胡坐をかく」という弊害も考えておかねばなりません。アーキビストに関する国家認定制度を作ることが先ず必要ですが、1度だけの認定で永続的な資格を付与することは良くないと思っています。例えばアーカイブズ学会登録アーキビスト制度では、5年更新の考え方が採用されていますが、何年ごとかは別にしても更新制度が必要だと思います。
・アーキビストに身に着けてほしい能力は何ですか?
私は東京都のアーカイブズにおりましたので、その事例でいえば東京都政全体の方向性を体系的に把握する必要があります。自治体のアーキビストは、皆さんそうしていると思います。一件の公文書、いわばアイテム部分の面白さではなく、事業全体として体系的に観る目が必要だと思います。東京都公文書館の場合は、東京都庁が親機関なので、親機関に関する知識が必要です。さらにその上で、役所側の価値観とは異なる公文書館の価値観(評価選別基準)で捉える視点が必要です。また事業全体を見据えた公文書構成を理解できなくてはならないと思います。
・学会登録アーキビストになったきっかけは何ですか?
本制度は、私の退職後に生まれました。現職の皆さんや、これからこの道に進もうとしている皆さんが活用すべき制度だと思っており、申し込みを控えておりました。ところが、石原一則さん(元本会会長)から連絡を受け、水野さんにとって実利益はないかもしれないが、アーキビスト業務を続けてこられた人にも加わってほしいと諭されました。そんなこともあって申請させていただきました。
5.尊敬するアーキビストについて
・尊敬するアーキビストはいますか?
日本アーカイブズ学会が考えるアーキビスト像は、「登録アーキビストに関する規程」で定める資格要件からくみ取ることが出来ます。それを一つの「円」に例えれば、私たち世代は必ずしもその「円」と同じものではないように思っています。一部で重なりながら、その外側にも広がっている「楕円」のようなものでしょうか。その上でのアーキビスト像ではありますが、尊敬する方はいろいろとお教えいただいた吉本富雄さん、安澤秀一さん、高野修さん(元藤沢市文書館長)ですね。いわば「茨の道」を切り開いて進んで来られた方たちです。海図も羅針盤もない中で船を進めていたわけですから、信念がなければ出来ないことだったと思います。そして少なくともその信念は、現在のアーキビスト像の「円内」に位置するものだったと思いますね。
水野保さん、ご協力ありがとうございました。
インタビューの概要
日時 2019年2月16日
場所 東京外国語大学本郷サテライト
聞き手 太田富康・倉方慶明、文責:倉方慶明
2020年11月 水野保さんによる修正加筆