【プロフィール】
1983年 埼玉県教育委員会就職
1986年 埼玉県立文書館に異動 (以後、文書館のほか県史編さん室、文化財保護課、博物館、生涯学習文化財課に在籍)
2020年 文書館副館長で定年退職
2023年 文書館史料編さん担当主任専門員で再任用任期満了 現在は学習院大学・昭和女子大学非常勤講師、国立公文書館アーキビスト認証委員会・武蔵野市歴史公文書等管理委員会委員、本会副会長
【業績】
『近代地方行政体の記録と情報』(岩田書院、2010年)
「アーカイブズ理解の50年/公文書管理法への50年」(『アーカイブズ学研究』11、2009年)
「地方改良運動期の郡報-地域情報施策と公報メディア・アーカイブズ-」(『国文学研究資料館紀要アーカイブズ研究篇』9、2013年)
「文書館から見る埼玉県の文書管理」(宮間純一編『公文書管理法時代の自治体と文書管理』勉誠出版、2022年)
「文書館の30年 part3 その後の20年 / 2000~2019」(『文書館紀要』35、2022年)
【学会登録アーキビスト】登録番号JSAS2012026
(初回登録:2013年4月1日、更新登録:2023年4月1日)
1 アーカイブズとの出会い
―ご経歴やアーカイブズとの「馴れ初め」についてお聞かせください。
一般行政職として埼玉県に入庁し、最初の配属先は県立高校の事務室で、その次の職場として4年目に文書館の庶務課に異動しました。これがアーカイブズとの出会いになりました。その後、古文書の読解ができるということで、館内異動で古文書課に移りました。以後、結果的にいわゆる一般行政を担当することはありませんでした。その約40年間の職歴のうち、出たり入ったりで文書館には計4回、通算29年間勤めました。
ただ、私自身には「アーキビスト」としてやってきた自覚はないんです。文書館で資料を扱っている存在を「アーキビスト」と呼ぶのであれば、職歴の大半をアーキビストとして過ごしたと言えるのかもしれませんが。
―文書館をメインにご経歴を積み重ねられたのですね。そもそも、なぜ埼玉県に入庁されたのですか?
文書館があったから、とか情報公開の先進県だったから、などという期待されるような理由は全くなく、公務員一般行政職を志望するなかで、採用試験の条件が最も緩かったというだけです。ただ、文書館に配属されてみると、そこは、全史料協(全国歴史資料保存利用機関連絡協議会)の事務局を務めるなど日本の文書館界をリードする存在でした。文書館との出会い、それも全史料協で中核的役割を果たしていた埼玉県という環境に置かれた「偶然」が、その後の私を支配してしまった、といえるかもしれません。
―古文書の担当というのは希望したのですか?
大学では国史学専攻でした。ただ、就職活動(試験勉強)をはじめるまでの、実質1年半くらいしか学んでいなかったので、歴史を直接の職とするのは無理だけど、何かしら文化行政的なものに携われれば、と考えていました。そういう意味では文書館の庶務課に配属され、希望どおりになりました。そこから古文書課や行政文書課へ移る、というのは、できることなら、という希望は抱いていました。でも、専門職の資格制度が定まっていた博物館や図書館だったらできなかったと思います。皮肉なことに文書館の専門職はなく、館長の裁量で職種に関係なく配属可能だったんです。私の場合、館長をはじめとする職員の方々が、どう評価してくださったのかはわかりませんが、学芸員資格をもっていて、古文書も読めそうだ、などという、実をともなわない外形的な要素がうまく作用したのかもしれません。
―文書館職員(事実上のアーキビスト)としてキャリアを積み重ねていくのだろうと認識したのはいつ頃ですか?
いけそうだ、と感じられたのは、キャリアも最後の方ですが、いきたい、と思うようになったのは、文書館に異動してきてすぐです。こんな世界(文書館)があったのかと驚かされるとともに、「文書館職員として働いていきたい」とすぐに思うようになりました。とにかく、文書館の仕事をしたい、続けたいという気持ちが大きかったですね。「行政の仕事が歴史になっていく」というのもおもしろく、やる気があれば職種を問わずなりえるのでは、というのもありました。
とはいえ何といっても一般行政職ですから、異動のたびに全く違う部署へ配属されてしまうのではないかとビクビクしていました。昇格に際しては、外部への異動も避けられませんが、類縁機関の範囲内ですみ、その後はまた文書館へ戻るというように、文書館をホームグランドとしたキャリアの積み重ねとなりました。そんなふうに周りでも見ていてくれている、と感じられるようになったのは、ようやく50代になってからでしょうか。
―公文書の魅力、面白さはどういったところにありますか?また、文書館業務に魅力を感じた理由は何ですか?
最初に魅かれたのは、「現代の文書が未来の歴史資料になっていく」という観点でした。アカウンタビリティとか、あるいは民主主義の指標とか、公文書がもつ特別の位置づけに魅かれたというのではありませんでした。最初はやはり歴史資料のひとつとして、その収集・保存の視点の違いに魅かれた、ということでしょうか。今では重要文化財になっている明治初年以来の公文書が威容を放っていた、ということもありますね。それらは、くずし字が解読できないと読めない、歴史知識や感覚も必要という代物です。現在を軸足に未来にも過去にも公文書は繋がっている、というか、繋ぐように理解し、整理・提供しないといけない。この実践においては、自分のような経歴と職種の者でも役立てる、アーキビストという専門職なら自分のキャリアの先にもあり得るのではないか、と自分本位に考えたところもありました。ですので、行政文書課もやってみたい、と思っていましたが、古文書課の次はそうではなく史料編さん事業でした。でも、現在を軸足に未来も過去も繋げる、というのは、いわゆる管理論だけの勉強では駄目で、認識論が大事だと思います。それがわかり、公文書が面白くなったのは、県史編さん室に異動し、史料編さん事業で「府県史料」を扱ったことが大きかったと思います。
―県史資料の編さんがきっかけになったのですね。
当時、県史編さん室では『埼玉県史料叢書』というシリーズの刊行を始め、その最初の5巻を「府県史料」のうちの「埼玉県史料」にあてていました。その担当になって、「府県史料」は、まさにアーカイブズだ、と思いました。毎年の公文書の中から府県史の「材料」として重要なものを評価選別していくというものでしたから。しかも、時期の重なる府県の記録管理制度整備と影響しあいながら展開し、全府県が同時並行で行っているわけですから比較検討もできる。そんなところから、埼玉県の一事例というのでなく、自治体の記録管理を時系列に見ていくことに興味をおぼえ面白くなりました。
(注)「府県史料」…1874(明治7)~1886(明治19)年にかけて、明治政府の命により行われた府県史編さん事業の成果物。各府県において、明治維新以後の府県庁文書を中心に編さんされた。
2 「太田富康」というアーキビストについて
―研究に積極的に取り組まれている原動力は、「府県史料」の存在が大きいのでしょうか?
文書館の収蔵資料を使って論文を書くという行為自体は、「府県史料」との出会い以前に、幕末の情報伝達などをテーマとして取り組んでいました。「情報伝達」―なぜ名主の家に黒船伝来といった記録があるのか―というのが単純な問題関心の始まりで、アーカイブズ研究という意識はまだ希薄でした。認識論的な研究として意識したのは、「府県史料」に興味を持った頃、安藤正人さんと青山英幸さんの編著による『記録史料の管理と文書館』(北海道大学図書刊行会、1996年)が出版され、渡邉佳子さんや水野保さんが書かれた論文に非常に刺激を受けたことです。その本の書評会に呼んでもらえて、そのままその研究会にも加えてもらい、それまでの全史料協での運動的な活動や実務的な勉強とは別の視野がひろがりました。学部卒の行政職ですので、こういう研究会、研究活動の経験がなかったもので、一人で考えていたことを、そういう場で聞いてもらえる、意見をもらえるというのが新鮮で、嬉しくて、その後の自身の研究につながりました。もちろん「府県史料」の話もさせてもらいましたし、そういう意味で「府県史料」の存在は大きかった、といえるでしょう。 ただ、紀要等への研究成果という点ですと、実は庶務課時代の仕事を「文書館施設のサイン装置」というテーマで論文にしたのが最初でした。施設の整備、動線などを取り上げたものですが、文書館という存在自体を普及させることを念頭に執筆しました。
―庶務担当というお立場で紀要に論文を掲載するというのは、あまり例がないように思います。
庶務担当と専門領域を担う担当は、今ではわりとしっかり線引きがされていますが、当時は専門職という認識がほとんどなかったこともあり、庶務担当でも展示を担当する、展示のポスターを作る、などということもありました。時代の空気として、色々なことをやらせてもらえる雰囲気がありました。その後も何か仕事をすれば、それが論文のような形になりました。全史料協だけでなく、埼史協(埼玉県地域史料保存活用連絡協議会)で事務局や専門研究委員会もやったりしましたので、そこで考えたことも文章にしたりしていました。現場の学であるアーカイブズですから、資料を読み込むばかりの研究でなく、何をやっていても管理論なり認識論なりの研究テーマにつながっていきました。文書館運動が盛んで、それでいてアーカイブズ学も緒に就いたばかりの発展途上の時代でしたので、何かしら仕事をすれば自然と色々考えることになる。そして私の場合、それを聞いてくれたり、あるいは形にしたりする全史料協などの場が近くにあり、環境に恵まれていたと思います。そういう所与の環境に流されていっただけの結果だったろうと思っています。
―それが、良い結果につながっているということですね。
そうですね。周りから客観的に見たときに、良い結果といえるようなものだったかはわかりません。ただ、こんなふうにインタビューしてもらえるまでアーカイブズの世界に居続けられたというのは、このような仕事の仕方を認めてくれる人が周りにもいた、ということでしょうか。個人的なキャリアからいえば、教育委員会にいるということが大きかったかもしれません。人事的に個々人を把握できる程度の規模の組織であったり、人事異動で回す類縁機関が複数あったこと、教員はもちろん、学芸員や司書という専門職が当たり前の世界であること、などから。私を一般行政職と思っていない人は多くて、未だにびっくりされることがあります(笑)。
―我々から見れば、まさに太田さんは“The Archivist”なわけですが、アーキビストとして大切にされていることは何でしょうか?
アーキビストの仕事は「人様の資料を人様に伝えること」だと考えています。埼玉県立文書館の行政文書は組織アーカイブズですが、文書それ自体は文書館の作成した文書ではなく、それぞれの課所が作った文書で、文書館は間に入ってそれらを利用者に提供する施設です。そういう意味では、作成原課とも良好な関係を築く必要がありますし、県の文書管理制度全体も考えていなければなりません。古文書なども、代々守ってきた家の文書を信頼して託してもらっているわけですし。
一方利用者に対する閲覧室業務などでは、コンテクストを大切にし、それを提供することが重要で、アーキビストはそのための専門職ともいえます。検索システムが存在しない時代には、利用提供の手段は紙の目録が基本であり、それをそのまま渡しても、閲覧者が見たいと思う情報にうまく行きつかないことも多いわけです。そういう点からすると、いかに閲覧者に対して「お節介」になるのかが大事なのではないでしょうか。やりすぎも良くないかもしれませんが―(一同笑い)。その兼ね合いも気にしながら一生懸命「お節介」をする、そういうことが大切だと思います。今は史料編さんの仕事で、編集室に籠って史料を黙々と眺めている毎日ですが、閲覧当番でカウンターに入るときだけは、そんな気負いがあるせいでしょうか、いい年をしていまだに緊張します。コロナのために事前予約で利用される資料も事前に知らせてもらっているのですが、それ以前は、どんなお客さんが来られるのか、何を求めて来られるのかもわからないまま、カウンターで待っているわけです。そのお客さんの求めに応えられるかの「ぶっつけ勝負」のような気分もありました。そのお客さんが在室している間の限られた時間内に、有益な情報を見出し、喜ばれる「お節介」ができるか、という。予約制になっても、送られてきた閲覧資料リストを見ては色々考えてますね。
3 業務について
―印象に残っているお仕事について教えてください。
その後の研究の起点になったという話では、先ほどお話した「府県史料」があげられます。
でも、定年退職を経て振り返るとき、印象に残るのは公文書の一連の仕事ですね。公文書の担当の時には毎年何かが起きていましたから(笑)。「府県史料」期以来の過去の記録管理を学び、国立公文書館の専門職員養成課程も受講し、知識ばかり増やした私でしたが、平成11(1999)年度に行政文書課に移って、ようやく実務として手掛けることになりました。それは、情報公開法が公布され、施行に向けて準備されている時期でした。また、地方自治法の大改正もあり、説明責任時代の幕開けのような時期でした。国と地方自治体の事務分担のあり方が大きく変わり、県から国に移管された事務については、文書館に管理委任されている現用の永年文書の扱いが焦点になり、その対応に追われました。また、埼玉県は全国に先駆けて独自の情報公開条例を設けていたわけですが、情報公開法の制定により、法に合わせる形で全部改正され、その過程で文書館と情報公開制度の関係が問題になりました。 2001(平成13)年には、「電子化」の問題が出てきます。ボーンデジタルの行政文書を文書館に移管するとなった時に、それをどのように行うのかということが大きな課題になりました。基本設計の策定まで県の電子文書システムに関わりました。残念ながらそこまでで異動になってしまいましたが、この3年間の経験は、明治初年以来の埼玉県の記録管理史に現在進行形の自分の仕事がつながる、という感覚を与えてくれるもので、アーカイブズの面白さを感じました。ひとつのまとめのような気持ちもあって、異動前の最後に「行政情報史の130年-埼玉県設置から電子県庁構想まで-」という展示にまとめたりしました。
4年を隔てて文書館に戻ったのですが、その間に先ほどの文書管理システムは稼働し、最初の3年保存文書が評価選別を経て文書館に移管される時期が近づいていました。私の不在中にそのための文書館側のシステムが予算化されていたので、戻った年はその整備に追いまくられ、翌年度当初の稼働にこぎつけました。実際の移管作業が始まると、これまた大変でした。さらに追いかけるようにやってきたのが、戦前期行政文書の重要文化財指定の話です。これも大変でした(笑)。情報公開と重要文化財としての管理が制度的に両立するのかという点がとくに焦点になりましたが、結果的に指定となったわけです。なったからには前向きに受け止めて十二分に利用しようと考え、指定の年度は1年間にわたって展示だ、講座だ、執筆だ、と普段にはない普及事業にあけくれました。
それが終わると今度は公文書管理法の制定を受けての県としての対応協議と、文書館の収蔵能力確保の問題に同時に直面しました。前者は条例制定には至りませんでしたが、「歴史公文書」の保存制度を、文書館だけが取り組むものから全庁的に取り組むものへと転換させる制度設計となりました。収蔵能力の問題では、関係課所による委員会を設け、その事務局として対策案をまとめた報告書を出しました。その案はすぐには始動しませんでしたが、後々、平成29~30(2017~2018)年度の大規模改修に際し、すべて実現することができました。「やっておくものだな」と思いました。この大規模改修の時期は公文書担当ではなく、1年目は総務担当部長、2年目は副館長でしたが、いかにして文書館の利用機能を維持したまま、収蔵資料をすべて外に出すか、という難しい問題と格闘しました。
どれが一番というわけではなく、情報公開法・地方自治法、電子化、重文指定、公文書管理法、収蔵スペース問題など、日本のアーカイブズ界が抱える課題が次々と降りかかってきて、その都度それに対応し続けてきた、振り返るとそういう歩みだったように思います。
―文書館として、文書管理にしっかりコミットできたのですね。
職場の先輩たちによる努力の上で、仕事の環境があった。県の文書管理という点では、県の文書課と一緒に仕事することが多かった。やっぱりそこは、「アーキビスト」ということなので、文書管理のあり方について考えますよね。文書館が教育委員会の所管だという前提なので、その点が文書管理制度の構築や運営を考える上で、考え所でしたね。 考える上では、「外」の状況を常に意識していたし、文書館が全史料協との関係が深いため、自動的に考える機会があったといえるでしょうか。
―これまでのお話を伺っていると、研究(アウトプット)に持っていけるモチベーションがすごく大事だと思いました。
行政の人も皆さん担当した事業のなかでは色々なことを考え研究されていますが、それを出そうという発想にはなかなか至らない場合が多いと思いますし、しやすい環境でもないと思います。それに対して、文書館やアーカイブズ学はまだ草創期というか、発展期という時代であったので、数少ない現場での実務経験とそこからの考察は、管理論においても認識論においても求められていたと思います。そういう中にあって、全史料協などの関係団体や研究会の存在は私にとって大きいものがありました。私自身のモチベーションというより、「○○について話してほしい/書いてほしい」というオファーが来て、発表する機会をいただけたことが大きかったと思います。
―業務に取り組む上で、太田さんが書かれた論文をまずは読むということが結構あります。
そうだとすれば、嬉しいですね。自館の業務を紹介する場や機会があることはありがたいことです。この業界でのつながりの中で、自分の館を位置付けてみる。そういうことをやっていくのが、アーキビストとしてのあり方の一つなのかもしれないですね。自分の館だけではなく、全体の中で普遍化させる作業を意識的にやってきたのかなと思います。もちろん私も他館の業務や研究に多くを学ばせていただきました。
―全史料協の存在は特に大きいですね。
大きいですね。私はアーカイブズの仕事を始めたのと同時に全史料協の事務局員になったようなものでしたから。毎月の運営委員会に出れば全国の最新情報がすべて聞ける、という感じでした。1990(平成2)年から2001(平成13)年までの大会では、毎年、壇上で何がしか喋る役回りでしたし。予算決算だったり、趣旨説明だったり、あるいは報告者、司会だったりと、色々な立場でしたけれど、その時代の面白さがありましたね。
―アーキビストが文書館を運営する立場(副館長)になることの意義や、そういう立場になったからこそ、取り組んでみたかったことはありましたか?
意義は大いにあると思います。文書館のことや文書管理制度のことを理解している人が副館長でいてくれると、仕事のしやすさや、取組み甲斐などが全然違いました。もちろん館長も同じですが、副館長は館全体、資料の全体を見据えたうえで、より具体的に業務に絡んでくるので。要求に応えるのに大変でしたが(笑)。
私の場合は、文書館の全担当を経験していることが活きたように思いますし、自分としてもそれが支えでした。大規模改修の際も、文書館のことを全般的な視点で理解していたことが様々な点で役に立ちました。「生き字引」などとからかわれるのは嫌でしたが(笑)。そんな同一館での長い経験というのも一つのあり方でしょうが、副館長あるいは館長として初めてその館に迎えられる、というスタイルも専門職としてはこれから大事でしょう。それを可能にするのが、専門職だからこその知識と技量を踏まえたマネジメント能力でしょうから。それがあれば、その組織・機関に接するのは初めてでも力を発揮できるはずですし、アーキビストという専門職自体の評価も高まっていくものと思います。
取り組んでみたかったこと、ということですが、副館長は2年間就いていましたが、大規模改修工事やコロナ対応など、「やりたいこと」というより「やらなければいけないこと」だけで終わってしまいました。
―これからのアーキビストに望むことは?
私は埼玉県の職員であることが先にあって、そのなかで文書館に来ました。それゆえ埼玉県立文書館しか知りません。そして、実務が先にあって、それから理屈を後から調べたり考えたりしていました。幸いに全史料協やアーカイブズ学会など、色々と学べる人と場に恵まれてはいましたが、自分が行き当たった仕事、課題ごとに継ぎはぎしていくことによって出来上がってきた「アーキビスト」でした。それに対し、近年は体系化されたアーカイブズ学を学んだ人が実務の現場に輩出されるようになりました。そんな人たちが「頭でっかちで実務を知らない」という言われ方をすることがありますが、登録アーキビストにしても認証アーキビストにしても、所定の実務経験を有してきた方々です。しかもアーカイブズに対する体系的で理論的で国際的な知識技能を身に付けている。そういう人たちが、埼玉県、埼玉県立文書館に勤めたら、見えてくるものは随分と違うだろうな、と思います。文書館の何たるかもしらなかった私などは、「頭」も実務もありませんでした。地方公務員としての知識も経験も就職してからですし、埼玉県に住んだこともありませんでした。そんな私ですから、羨むばかりで望むことなどありません。思い切り、力を尽くしていただければ、と思います。 ただ、アーカイブズ資料は文書館などの専門機関だけでなく様々な場にあります。現代社会の像を伝えていくために、それは欠かせないことだと思います。それゆえ、そんな様々な場においても、アーカイブズの方法論を理解してくれる必要があると思います。これからのアーキビストの人たちは、それを広めていってほしい、根付かせていってほしい、と思います。自治体のアーカイブズ機関でも公文書・古文書から、さらに現代社会の様々な分野・組織に収集の手を広げていく必要があるのだろうと思います。大会の自由論題研究会などでは、多様な分野の報告が聞けて非常に興味深く思います。それをどう現場に持って行ってもらえるか、どう活かすかを考えていただければと願っています。もちろん、受け入れる現場の側の体制も変わっていく必要がありますが。学問が追究するのは、一番正しい、あるべき方法だと思います。でも、現実は理想的なレベルには達していません。そこで、理想的なところに近づけるように努力する必要があるわけですが、そこのところをわかってもらうことが大切だと思います。
もちろん、身を置くことになる個々の組織を事前に知悉しているということは稀でしょうから、現場に入った時にはその組織を学び、理解する必要があるわけですが、その際にもアーキビストとしての専門性や知見をベースにすることが大事でしょう。そうして組織の特徴を踏まえつつ、自分の専門知識を柔軟に活用していくことが、専門職としての評価につながっていくものと思います。アーキビストとしての核となる考え方は持ち続ける必要がありますが、それだけでは、組織の中で浮いてしまいかねません。「人様の資料を人様に伝えること」がアーキビストの重要な任務だとすれば、資料を託す人たち、資料を利用する人たち双方からの信頼が欠かせません。そのためには、その人たちの立場や気持ちを理解できることも重要な要素となるでしょう。
太田富康さん、ありがとうございました。
日 時 2022年9月27日
場 所 日本アーカイブズ学会事務局
聞き手 柏原洋太(千葉県文書館)・関根豊(神奈川県立公文書館)
2023年7月 太田さんによる修正加筆
【補記】
2022年9月にインタビューを受けた時点では、今年度も文書館職員を続けているつもりでした。が、翌10月になり、事情あって退職を決意しました。そのため、退職後の心境の変化も受けて見直したい、という気持ちが起きたこともあり、早々に原稿をまとめていただいていたにも関わらず、私の見直しが大幅に遅れ、この時期の掲載となってしまいました。結局心境の変化による修正はほとんどなく、当日の拙い回答では意を尽くせなかったところを加筆させてもらうにとどまりました。ご迷惑をおかけしたインタビュアーのお二人には、心よりお詫び申し上げます。(2023年7月28日 太田)